2024.07.10
若者のこころ考現学 (第5回)
偶然が織り成す物語
臨床心理士/公認心理師金屋光彦
1不思議な出来事と無意識
思ってもみない不思議なことが、突然自分の周りで起こる。偶然ともいえるそんな経験を、あなたも一度や二度されたことがあるでしょう。
「精神生活の大部分は、無意識である」
世界の3大心理療法の一つ、精神分析的心理療法は、原則の一つをそう語る。意識的なものを越えた何らかの力が働いたと感じさせる現象が、私たちの日常生活でもしばしば発生する。そのことを示唆する、東京で実際にあった事件から考えてみよう。
2019年4月、交通事故で愛する妻子を失ったMさんの当日のことである。いつものように奥さん(当時31歳)がキッチンで長女(当時3歳)の朝食を作り、Mさんはまだベッドでウトウトしていた時だった。急に奥さん が走ってきて、ベッドにいたMさんに抱きつき、10秒くらいそのままの姿勢を取った。今までになかった初めての出来事だったという。「どうしたの?」と聞くと、「何でもないよ」と言って、奥さんはキッチンへ戻っていった。そうしてその日の午後、長女と自転車で出かけた奥さんは、暴走車にはねられるのである。尊い2つの命が奪われ、この悲しい事故を思う度に、今も涙する。
2 人生で最も大切なこと
「人生で最も大切なことは、職業選択である。それは、偶然が決める」――そう語ったのは、17世紀のフランスの思想家パスカルだった。
一般的な職業の種類は、約2万8千にのぼる。その中から自分にふさわしい職業をチョイスする事は、そう簡単な作業ではない。ランチを何にするか、その選択はメニューの中からその時食べたいものを、懐具合と相談して決めればよい。しかし、生活の骨格である職業の選択を適切に行うには、選ぶ根拠となる内容を、一つひとつ明らかにしていく必要がある。
例えばそれは、自分の興味や価値観、潜在する能力、好きなこと、強みや得意なこと、職業を通して実現したいこと、送りたい生活スタイル等であり、それらが不明なうちは適切な選択は難しい。また、メニューに当たる職業の中身も、よく調べて正確に知ることが必要だ。ところが天才パスカルは、ばっさりと「偶然がそれを決める」と語ったのである。
自分が何者になるのか、職業選択はアイデンティティの問題でもあり、納得のいく決断に至るまでの道程は重く長いものだ。大卒なら生きてきた約22年間全てがその準備期間、ともいえる。いざ職業生活へ移行する時に、真剣な学生ほどその決断の難しさに、しばし立ち尽くす。職業の選択は、パスカルが語るように、偶然で決まるものなのだろうか? 皆さんの場合は、どうだっただろうか?
3 筆者のケース
私の場合を振り返ってみると、実はパスカルの言ったとおり、なのである。20代で月刊誌の記者になったのも、30代で勤労青少年職業カウンセラーとして心理支援を始めたことも、偶然の出来事からだった。
「原稿を書いて生きていけたら…」そんな妄想気味の希望を抱いて、大学を卒業した。当時卒論指導で御世話になったM教授が「達意な文章を書く」と私の原稿を褒めてくれたのも、妄想強化に輪をかけた。しかし現実は、売れる原稿はなかなか書けず、先の見通しは全く無く、傷心と焦燥感が募る中で、ただその希望だけが支えだった。
そんなある日、彫刻家の友人から芸術家が集まるというXmasパーティの誘いを受けた。会費は高かったが、当時極貧だった私は、なぜか参加した。そこで、著名な社会派ジャーナリストを夫に持つTさんと偶然出会い、そのご縁で月刊誌記者の仕事を始めるのである。
10代から対人不安が強かった私には、取材での面会は相当荷が重かった。しかし、当初恐怖心で一杯だったインタビューが、次第にわくわく感のほうが勝っていったのは、誠に不思議な変わり様であった。
4 大谷翔平選手の場合
大リーグで活躍する大谷翔平選手の職業は、プロ野球選手、それも打者と投手を兼ねる二刀流である。
二刀流プロ野球選手になる、この発想は大谷選手本人から出たものではない。「打者と投手二つをやらせてもらうことは、僕にはない画期的なアイディアでした。(中略)もし高校から米国へ行っていたら、おそらくバッティングはやっていなかった」と、スポーツライターS氏の取材に本人が語っている。
大谷選手は、高校から直接大リーグへ行くことを決めていた。ドラフト会議前にその決意を公表し、各新聞もその決断を大きく報道した。ところがその4日後のドラフト会議で、日本ハム球団は単独1位で指名するのである。だがこの時も、「日本ハムへ入団する可能性は、ゼロです」と取材陣に語っていた。
しかし、栗山監督率いる日本ハムは、入団交渉で「誰もやっていないことをやりたい」と述べた大谷選手の思いを受け、「投手と打者の両方をこなす二刀流選手として育てたい」と、思いがけない提案をするのである。
日本ハムが他の球団のようにドラフト会議での指名を諦めていたら、また、大谷選手側が日本ハムの人達と会わずに、話を聞くこともなく断ってしまっていたら、今の輝ける二刀流の大谷選手は、決して誕生することはなかったといえるでしょう。